FEATURE「嫁と僕のおけいこライフ」*前編 〜人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして意外なペアリング〜

2019/03/12

<登場人物>
僕=マサル。静岡県出身の39歳。実家はお茶農家。広告編集プロダクションに勤務。一番モテたのは、バレンタインデーにチョコを5つもらった高校2年の時。17歳が人生の絶頂だったと思う。
嫁=よしえ。大阪府出身の45歳。物書き。昼間は児童小説と絵本を描き、夜は町歩きエッセイを執筆。バレンタインには特に思い出はない。地方に行くと地酒を探すのが楽しみ。好きな日本酒は「開運」。


平和を愛する真面目サラリーマンの「僕」と、昼寝がエネルギー源の「嫁」がおけいこにチャレンジする物語。今月は、ホームパーティに役立つ日本酒ペアリング講座、「バレンタイン」企画へ。

結婚7年目。もはやバレンタインなど遠いおとぎの国の話だが、僕と嫁の唯一の共通項として「お酒LOVE」というのがある。ふだん嫁はビール、僕はレモンサワーを愛飲しているが、そろそろ日本酒のいろはを知っておきたいお年頃。アラフォーともなると、日本酒を飲む機会も多くなる。自分の好みを知っていたほうが飲み仲間との楽しみが広がる。

今日は、チョコレート×日本酒のペアリングを学習する。想像がつかないだけに胸が踊る。そんな僕の横で、嫁の顔は静かに張りつめていた。嫁は、たとえ習い事であっても、人前で己の舌の感覚を試されることにおそれを抱く。家で地ビールの味比べするのは楽しくも、人様にその寸評を伝えるということに異様なプレッシャーを感じるらしい。
トラウマがあるのだ。
かつて、彼女が参加したワインの試飲会でのことだ。ワインの味の表現の定番、「これはまさに濡れた犬の毛のようですな」と言ったワイン通気取りがいたらしい。無知な嫁はよせばいいのに、「濡れた犬って、どんなですかね。小型犬ですか、大型犬ですか、雑種でもいいんですかね」と無邪気に尋ねたところ、相手は、「濡れた犬は濡れた犬だよ。もののたとえだよ、表現だよ。なら、次は君なりの言葉で感想を言ってみなさい」と迫られ、「この赤ワインは、鉄棒の味……のような。子供の時、逆上がりに失敗して歯をぶつけたことがあるんです」と真面目に答えたところ、それはそれは恐ろしい笑いがドッと起こったのだそうだ。

以来、嫁は味の表現することから逃げ、さらには己の味覚に不信感さえ抱いているのだった。

教室には、めいめい利き酒用のグラスが3つ用意されてあった。まるでシャンパンを飲むような細長い形だ。日本酒なら、底に青い渦巻きのあの白いおちょこがスタンダードだけど、「これはISOグラスというものですよ」と先生。ワイン教室などでもつかわれるものらしい。
「今日は、まずそれぞれの日本酒の色と香りを知ることから始めましょう。日本酒って1種類飲んだだけだとわからないの。飲み比べてみて初めて個性がわかるんですよ」

「今日、ご用意したのは変化球の日本酒ばかりです」
先生が3本の四合瓶をミニ冷蔵庫から取り出した。横文字のおしゃれなラベルのものもあり、嫁が「ワインみたいなのがある……」とつぶやいている。ワイン酵母で仕込んだという珍しいお酒だ。

「ラベルのイメージを植え付けないで始めましょうね」と先生。
本日の師、手島麻記子先生は、女優の森下愛子にちょっと似ている。
僕は吉田拓郎ファンだから、その奥さん似の先生に自動的に好感を持った。
手島先生は、30年前にパリでテーブルコーディネートを学び、かつ「酒匠」という、日本酒の世界では大変名誉ある資格もお持ち。自身が異文化のペアリング、みたいな人である。

そんな手島先生がセレクトした日本酒がじゅんぐりにまわり、グラスに注ぐと、日本酒ってこんな色だったんだ……と驚いた。
「もともと日本酒は、麦わら色なんです」
「麦わら色って言っても、どれも濃さが違うね」と嫁。
そうなのだ。こんなに色の濃淡があるとは知らなかった。
色を見たあとは、「上立香」(うわだちこう)と言って、グラスの腰がふっくら張ったところからやや細まる飲み口までの空間に香りがたまる。口に含まず、まずはその上立香だけをかぐ練習。見事に三者三様違った。柑橘系の香りのもの、どことなくウッディなフレーバーのもの。
続いて試飲すると、匂いだけではわからなかったキャラクターが浮き彫りになる。先生は、一人ずつ、感想を問いかけた。
皆、日本酒に対する愛と基礎知識がおありの生徒さんばかりだ。

イメージ

「これは、深い米の旨味を最初に感じさせながらも凛とした男らしい味わい。こちらは華やかな果実のようなフレーバーも漂い、全体的にバランスが良く魚介系の料理に合いそう。一方これは、ボディがしっかりしていてナッツのような深い旨味をじっくりと味わえ……」

嫁の瞳孔が開き始めた。賢者らの冴え渡るコメントに圧倒されている模様。そっと嫁のシートを覗き見ると、「家でパンを作る時、発酵した生地から漂う香りがした。春のパン祭りのような味を想像したが、思いのほか酸味あり。春は遠そう」とか「デパ地下で買うちょっと高い京粕漬けの風味」とか、「匂いはマスカット。味はパリの貴婦人のようにエレガント」とか。僕は不安を感じた。祈った。どうか先生、彼女を当てないで。

「では、よしえさんはどうでしょう」
くりくりとした瞳で先生は明るく言った。
春が遠い嫁は、俯きながらシートに書いたことをぼそぼそと読み上げた。
先生は、んん? という顔で嫁を二度見した。しかし、ほどなく顔にはにこやかな笑みが広がり、やがて破顔した。
それはまさに春の訪れを感じさせるような、わくわくした表情である。

「面白い、そう来ましたか。大丈夫、あってますよ……」
『あってますよ。』
嫁の心のダムが決壊したのを、僕は隣で感じた。彼女はテイスティングのトラウマから解き放たれていた。先生は続けた。
「難しい言葉を使わなくていいんです。専門用語よりも自分の言葉にすることが大事なんですよ」
「わわわわ。ありがとうございます」
まさかこの珍コメントでお褒めの言葉を頂戴するとは。
嫁、すごいな……。僕は一周まわって彼女を尊敬した。
かくしていい感じに盛り上がり、いよいよ今日のメインである「ペアリング」へ。

<後編へ続く>

◆さくらいよしえ(ライター)
1973年大阪府生まれ。日本大学芸術学部卒。
月刊『散歩の達人』や「さくらいよしえのきょうもせんべろ」(スポーツニッポン)、「ニッポン、1000円紀行」(宅ふぁいる便)など連載多数。著書に『にんげんラブラブ交叉点』『愛される酔っ払いになるための99 の方法 読みキャベ』(交通新聞社)、『東京千円で酔える店』『東京せんべろ食堂』『東京千円で酔えるBAR』(メディアファクトリー)の他、絵本「ゆでたまごでんしゃ」(交通新聞社)、児童小説「りばーさいど ペヤングばばあ」(小学館)など児童向け書籍も執筆。

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